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奇   知   外   記

奇  知  外  記

天一国・天聖経 - 第1篇 神様 - 第2章 - 心情と真の愛の神様

第二章 心情と真の愛の神様

第一節 心情の神様

1 神様は心情の主体です。ですから、神様も無限に悲しい感情をもっていらっしゃり、無限にうれしい感情を もっていらっしゃいます。神様だからといって、喜び、うれしい感情ばかりもっていらっしゃるのではありません。悲しいとすれば、人間たちが到達できないほ ど深く、広い悲しみの心情をもっていらっしゃるお方です。

2 人間を造った神様は、私たちの心と体の主人であること はもちろんであり、私たちの理念や、私たちの感情世界の主体の位置、主人の位置に立つことのできるお方であり、さらには、私たちの心情の主人であり、主体 であられるお方です。私たちには、このような神様が絶対的に必要です。私たちの意識や人情で観念的に必要なのではなく、絶対的に必要です。そのような主人 を失ってしまったことが悲しみです。


神様は心情の主人

3 神様は、「私」の体と、私の心情の永遠 の主人です。本然の世界は、いくら愛する夫婦だとしても、夫が妻よりも神様をもっと愛するからといって、妻はその夫を恨みません。また、妻が神様を夫より もっと愛するからといって、夫は「なぜ私より神様を愛するのか」とは言いません。それを見て喜ぶことのできる世界が天国です。世の中のどのような愛、どの ような内容をも超越した主体的な立場にいらっしゃる神様は、私の体の永遠の主人です。体の永遠の主人であるその神様の懐やその園にいることができれば、死 んでもよいというのです。

4 真の内的心情の縦的な位置に立っているお方が、神様です。父です。それでは、真の父母 とは何でしょうか。横的な心情を中心として男性と女性が父母になり、垂直線を補強できる「副体」になるのです。垂直線を曲げてはいけません。この中央線に サタンが侵犯できる道があるので、愛の骨の中で、これを補強できる愛の肉にならなければなりません。愛と化した骨と肉、愛と化した骨の立場の父が縦的な神 様であり、愛と化した肉の父母の立場が真の父母です。これが核となって「副体」が決まるというのです。

5 心情の役事とは、人間の肉身と関係している場所を中心として語るものではありません。ここには天情が介在しています。この天情は、根源も天情であり、過程 も天情であり、結果も天情の内容を備えなければなりません。ですから、神様の愛を中心として神様と一体となって生まれた、堕落していないアダムとエバのよ うに、神様の血統を受け継ぐことのできる関係をもった自らにならなければ、心情的な勝利の土台を備えることができません。

6 本来、アダムとエバは神様の心情に通じ、神様の希望をもって躍動しながら、毎日の生活の中で神様の懐に抱かれて満足し、あらゆることに対して感謝する主体 にならなければなりませんでした。ところが、彼らがそのような道を歩むことができない姿を御覧になる神様の心情の痛みは、苦しむ彼ら以上のものだったこと を、私たちの先祖は知りませんでした。

7 今日の「私」はどのような心情でさまよい、どのような視線と、どのような 五官をもって生を営んでいるのかを考える前に、皆さんはまず「天よ!私は、心情に対する感覚をもって生涯を生きていますので、昔、エデンでアダムとエバが 堕落する前に神様と向き合っていた心情と、堕落したときの心情、神様がアダムとエバを追い出された心情、この人類をつかんでノアを立てる時まで千六百年の 間苦労された神様の心情、ノアが百二十年間、山の上で箱舟を造ったとき、激しい冷遇と虐待を受けながらも天に従って苦労したその心情、紆余曲折と千態万象 の歴史過程を経てきた神様の心情を、自分のものとして一度生きてみたいです」と言うことができなければなりません。

8 生活感情で、私たちが、神様の感情と共感した感情を、いかに感じるかということが問題です。一人でいれば、思わず「お父様!」と呼び求めることができなけ ればなりません。そうすると、神様から「どうした!」と答えが返ってくる感覚を受けるようになります。一体になれば、そうなります。誰もいないようです が、誰かが私を主管し、指導しているというのです。そのような生活圏内に入った人ならば、神様がいる、いないということが問題にならず、困難にぶつかれ ば、必ず「私」を擁護してくれ、導いてくれることが分かる立場なので、神様を裏切っていくことはできません。

9 神 様も、情、知、意をもっていらっしゃいます。神様から造られた人間に情、知、意があるのですから、神様は言うまでもありません。たとえこの地上の人類が堕 落の子孫だとしても、本来は神様御自身の血族であり、直系の息子、娘なので、失った息子、娘を捜し求める父母以上の心情で歩んでこられたお方が神様です。 ですから、私たちがこの地に対して涙を流し、死と苦痛で倒れ、悲哀に満ちて悲しむ場面が、正に神様の悲哀と悲しみが反映された場面、場面なのです。ですか ら、善良な人を蔑視し、善良な人を迫害し、善良な人の命を奪った個人、家庭、民族は長続きしません。神様がそれを記憶するからです。した がって、私たちは自らの涙が落ちるたびに、天の涙が落ちることを知らなければなりません。怨讐に対して無念で悔しい思いが湧き起こるたび に、神様が赦しの涙を流されることを私たちは知らなければなりません。恨みを晴らしても、「おい、こいつ、お前は、よくぞ死んだ」と言う神様では ありません。人を怨讐だと思って打つのではありません。

10 先に与え、打たれて復帰してくる神様です。皆さんもそ うでなければなりません。神様の悲惨な経綸も、私たちのためです。「お前と共に語り合い、お前と共に働きたい」と言いたい神様の歴史的な心情を知らなけれ ばなりません。神様は、忘れることなくお待ちになります。「私」はいつ神様の復帰摂理に同参(一緒に参加すること)できるかを考えてみなさいというので す。神様と共に住むことができる生活舞台を見いださなければなりません。そして、神様のように考えることができ、語ることができ、行動することができる道 を求めていかなければなりません。

11 神様は、全天宙を創造された創造主であると同時に、私たちの真の父です。そ の真の父は私たちを訪ねてこられるでしょう。どのような運命の紆余曲折に置かれても、それを越えて、その真の父のみ手をつかみ、歴史的な願いと自分の生涯 の願いの心情を抱き、「私の父よ!」と最後の一言を残す時まで、人間は行かなければなりません。死の道が横たわっているとしても、そこまで行かなければな りません。終わりの日に、人類の中でそのような道を走っていき、創造主であり、絶対者である神様に対して、「私の父よ!」と呼び求める群れが現れるように なるとき、そこから神様の新しい経綸が始まるのです。

12 私たちがより良い善を指向し、 より美しい美を求め、より情的な愛を探し求める一番の目的とは何でしょうか。それは、創造主の天的な心情と関係を結ぶことです。このような見地において、 神様の心情、天倫の心情、人倫の心情を探るとき、これらの心情が一つの目的に向かって正常に動いているのかといえば、そうではないというのです。人間社会 における人倫と摂理の法度に従って動いている天倫は、方向が異なっています。このような事実は、堕落の結果です。堕落によって創造主の心情と天倫の心情、 人倫の心情が相反しているという悲しい事実を知らなければなりません。このような自分たちだということを認識し、このような社会だというこ とを認識し、このような世界だということを認識して、歩みを止めて再び復活した被造世界を見つめようとし、創造主の心情を再び見つめようとし、社会の実状 を再び見つめようとし、自分の心と体に再び注目しようとしなければなりません。このようにしなければ、新しい理念の世界、新しい情的な世界は、人類歴史に 登場できません。

13 天の勇士になろうとすれば、神様の心情を知らなければなりません。国の忠臣になろうとすれ ば、国王の心情を知らなければならず、父母の前に孝子になろうとすれば、父母の心情を知らなければならないように、天の勇士になろうとすれば、神様の心情 を知らなければなりません。神様の創造前の心情と創造当時の心情、また創造以後、人間が堕落する時の悲しい心情と、その悲しい心情を抱いて復帰歴史を綴っ てこられた復帰の心情、そして、復帰したのちの世界を希望される、その心情を知らなければなりません。

14 統一教 会で言う神様の心情は、長く、大きく、深いものです。創世前の神様の心情、創世当時の神様の心情、創世以後、アダムとエバが堕落する時の神様の心情がどう であったかを知らなければなりません。アダムとエバが堕落して、神様の胸にどれほど大きな釘を打ち込んだかを知らなければなりません。堕落した以後にも、 神様がどれほど悲しまれたかを知らなければなりません。また、復帰路程を歩んでこられながら、どれほど悲痛な心情をもって訪ねてこられたかということを知 らなければなりません。復帰の世界をつくるために、御自身の息子、娘たちを凄惨な死の峠に追い立てながら、耐えていきなさいと告げられた神様の心情が、ど れほど悲痛だったかを知らなければなりません。そうして最後の一つの中心存在を通してこの罪悪世界を清算し、神様の心情的な恨を解いてさしあげてこそ、み 旨は成就するのです。

15 復帰摂理歴史を見ると、神様は世界的な運勢を起こしてこられました。神様は太初に広大な 宇宙を造られ、その中心にアダムとエバを立てられました。アダムとエバを造る時、万物のすべての要素をもってお造りになり、多くのものを賦与されました が、その中で最も重要なものとは心情です。心情は四位基台の中心であり、四位基台の核は愛です。あらゆる存在の最も核心的な基点は心情です。

16 愛と心情は、どのように異なるのですか。普通、愛といえば、心がうきうきしている気分を感じ、心情といえば、心と密接な閾係があるように感じます。その心 情は、四方性を有しています。ですから、心情が愛よりも全体の中心です。心情は、愛の過程を経た結果的な立場と同じです。それで心情は、立体的な世界の中 心です。ですから、統一教会は今まで、愛の世界より心情の世界を創建しようと主張してきたのです。このように、あらゆるものの中心は心情で すが、この心情は必ず家庭を中心として出てきます。そのような心情が、神様を中心として連結されて一つにならなければなりません。この時、一つになる心情 は、個人的にも、家庭的にも、民族、国家、世界的にも一つにならなければなりません。このように見るとき、復帰の完成というものは、心情を除外してはでき ません。中心の位置を立てることができないからです。


心情を通して感じられる神様

17 歴史的な 神様の心情は、六千年間悲しみでした。不信した私たちの先祖たちに対して、無念な思いをもっていました。今、私たちは、悔しく悲しい神様を慰労してさしあ げる祈りを捧げなければなりません。今、世界に散ちばっている第一、第二イスラエルに対する神様の心情は、悲しみです。その父の袖をつかんで、「父よ、ど うしてあなたの心情はこのように痛ましく無念なのでしょうか」と言うとき、その手をつかんで「おお、私の息子よ、私の娘よ!」とおっしゃることのできる群 れが現れなければなりません。

18 今日、新郎が新婦を復帰するために手紙形式で書かれた聖書のみ言には、暗号がた くさんあります。なぜ暗号で語られたのでしょうか。心情の神様だからです。聖書は誰もが解けるわけではありません。新郎だけが解くことができます。心情を 通して侍ることのできる準備をした人だけが解けるのであって、そうでない人は解けないようになっています。それでは、ここにある暗号の正体とは何でしょう か。新郎が来ることのできる門を開く秘訣です。その秘訣が心情なのです。父母の心情は、幼子を抱いてお乳を飲ませるときも、その子女の頭が白髪になったと きも同じです。その心情には差がありません。

19 キリスト教徒たちは、「主は雲に乗って来なければならない」と言 います。それならどれほどよいでしょうか。本当にそうであれば、私たちも苦労しません。そのような形で信じようとするなら、牧師や長老たちに負けないほど 信じたでしょう。精誠を尽くすことにおいても、誰にも劣らなかったでしょう。主が雲に乗って来られて、どうするというのでしょうか。今までのキリスト教の 歴史を調べてみれば、霊的な領域しかなかったために、虐殺され、殺害されながら来ました。地の基盤がないため、数多くの国家の主権者たちに虐殺され、犠牲 にならなければなりませんでした。それだけでも悔しく恨めしいのに、再臨主までがまた霊的な存在として来て、どうしようというのですか。キリスト教徒だけ こっそりと他へ移して、ほかの人たちはみな葬ってしまうという話ですか。神様は、決してそのようなお方ではありません。聖書の放蕩息子の比喩のように、神 様は自分の長男だけでなく放蕩息子である次男も愛する、心情の神様であられます。

20 六千年の間、心情に飢えた大 主宰であり、大王として今まで苦しんでこられた神様であられることを、はっきりと知らなければなりません。その神様を慰労してさしあげなければなりませ ん。その神様は、すべての世の中を一度に審判してしまいたいという切実な気持ちがありましたが、御自身の目的があり、御自身の願いと希望がこの地上にある ので、それを見つめて耐えに耐え、さらに耐えてこられたことを知らなければなりません。そのような神様を「父」と呼ばなければなりません。名前だけの神様 ではなく、心情の神様を「父」と呼ばなければなりません。そうして私たちの血族でない血族、父母でない父母、兄弟でない兄弟たちが世界的に動員され、天の 志操を立てることができ、天の心情と関係を結んで古今東西を超え、民族と国家を超え、天上の心情を中心として動くことができる新しい主義が、この地上に出 てこなければなりません。それが出てこなければ、世界は崩れていくのです。

21 今、人間は行く所がありません。し かし、最後の決着をつけなければならないので、絶望の中だけにいるわけにはいきません。今からは、真の真理をもって新しい天地に入っていける、真理による 開放運動が広がらなければなりません。失望と絶望に直面している環境を整備し、たった一つしかない生命の道に導いていける基準が現れなければなりません。 ですから、今まで何主義、何主義といいながら真理を探してきたのです。完全な真理が現れる時に、初めて世界は完全に統一されるのです。真理に通じてからは、人格を完成しなければならず、その次には心情を完成しなければなりません。

22 私たちは、心情を通して歴史的な神様を知らなければなりません。創造当時から神様は、心情の神様でした。私たちは創造当時の神様の心情と、人間の堕落以後 の神様の心情がどうであり、歴史過程を経てきながら、どのような心情をもってこられたかという歴史的な神様の心情を知らなければなりません。皆 さんは、信じるには信じていますが、神様の心情が分かりますか。神様の心情を知らなければなりません。その次には、時代的な神様の願いとは何であり、時代 的な神様の心情がどうであるかを知らなければなりません。そうして、未来的な神様の心情を知らなければならないのです。

23 切実な心情をもって任せられた使命を完遂するために、無限に努力したにもかかわらず、結局は十字架にかかるようになったイエス様の姿を見つめられる、神様 の悲しい心情を感じなければなりません。イエス様には、万民を身代わりし、全字宙を身代わりして神様の悲しみを解いてさしあげ、神様のみ旨を成就してサタ ンを屈服させなければならない使命がありましたが、不信する群れから、あちらで追われ、こちらで追われて、結局はゴルゴタ山上で十字架にかかるようになり ました。このようなイエス様の心情は、どうだったでしょうか。自らを中心として約束されていたすべてのみ旨が破壊されてしまい、自らの一生が結局は十字架 の刑に帰結することを感じたイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで天を裏切らず、天に対する忠誠の道理を果たされました。すべての人間がイエス様 を不信しましたが、イエス様はそのようなこととは関係をもたず、天倫に向かうその道を一生の目標にして進んでいったというのです。そのようなイエス様の一 生が、人間にとって歴史的な希望の道となりました。

24 堕落したこの地上に神様の恨があるとすれば、それは真の父 母が存在せず、真の夫婦、真の子女がいないことです。これが神様の嘆きです。パウロは、堕落した人間が養子の姿で救いを得るだろうと言いました。しかし、 それは養子であることを知らなければなりません。いくら優れているといっても、養子だというのです。それでは、神様の悲しみとは何でしょうか。それは、直 系の子女が養子になったことです。ですから、歴史は、神様の直系の子女を回復するための悲しみの歴史路程です。このような神様の歴史的な悲しい心情を知っ ている人は、神様を近くに迎えることができるでしょう。また世の中で子女を生んで育てて生きる父母は、子女を愛することによって神様の心情を感じることが できます。ですから、本当の夫婦の愛を感じる人は、それを通して神様の本然の愛を感じることができなければなりません。子女が父母を愛することにおいて も、やはり同じです。そのような基準がこの地上に現れれば、私たちには善に対する理念が必要になります。「私」自体が善の本体でありながらも、今日の 「私」自身は、その中心による相対的な生活観しかもっていません。あらゆるものの主体として立つことのできる価値の中心、生命の中心、理念の中心、愛の中 心になることができるのは、真の父母の愛の心情によってのみです。


真の父母、真の師、真の主人の主体であられる神様

25 神様を完成させるのは、愛を中心としたアダム家庭です。神様を完成させるのは、人だというのです。また、人を完成させるのは神様の愛です。これが神人一体 理想です。「君師父」という言葉があります。王と師と父です。「君師父一体」という言葉は、三大主体思想を意味するのです。父母の心情も、ために生きる愛 です。愛する子女に対しては、より投入して忘れることのできる生活を送ってこそ父母です。神様は三大主体思想、君師父の主人です。神様は父の中の父であ り、師の中の師であり、王の中の王です。

26 神様は父母の中の真の父母であり、師の中の真の師であり、王の中の真 の王です。神様は、永遠の真の父母であり、永遠の真の師であり、永遠の真の主人です。私たちが神様の息子、娘になるとすれば、まず神様のような真の父母に ならなければなりません。神様のような真の師の道を行かなければなりません。そして、神様のような真の主人になる道を行かなければなりません。これが三大 主体思想です。究極的なモデルは神様です。

27 三大主体思想の中心とは誰かというと、父母です。父母のような師、 父母のような国王にならなければなりません。父母の中の父母、一番の父母が神様です。ですから、神様のような父母、神様のような師にならなければなりませ ん。これが三大主体思想です。地上でもこの三大主体思想だけが残り、天上でもこの三大主体思想だけが残るのです。

28 「主体思想」という言葉は、三大主体思想の中にある三つのうち、どれでもすべて当てはまります。三大主体思想は、三つがすべて「主体思想」なので、真の父 母をもってきても、そこには真の師がいて真の主人がいます。真の師をもってきても、そこには真の父母がいて真の主人がいます。真の主人をもってきても、そ こには真の師がいて真の父母がいます。三大主体思想の三つは対等です。神様は、真の父母であると同時に、真の師であると同時に、真の主人です。どのような 師でしょうか。ために生きて、さらにために生きながら教えてあげようとする師です。また、どのような主人でしょうか。すべてを握って自分のものにしようと するのではありません。神様までもあなたのものにしてあげようとするのです。「あなたが主人になるのだ」ということです。ですから、これを 一言で表すならば、「生んで、育てて、立ててあげよう」です。総論は、「生んで、育てて、立てて、主人にしてあげよう」です。神様も同様です。人を創造し て、育てて、天宙の主人である神様の代わりに、愛をもった者として自分よりも高い位置に存在するようにして、主人にしてあげようとするのです。

29 神様の創造理想は、家庭理想です。家庭をつくろうとしたのです。家庭が形成されるためには、生んであげなければならず、育ててあげなければならず、立てて あげなければなりません。それを父母がします。神様と同様です。神様は、真の父母の立場にいらっしゃるお方です。ここから三大主体思想が出てきます。第一 は真の父母、第二は真の師、第三は真の主人です。これを毎日の生活信条にしなければなりません。

30 神様は三大主 体思想の主人です。神様は父母です。父母が絶対に必要であり、真の師が必要です。世の中が混乱しているので、この三つのうち真の父母だけを見いだしても生 きていくことができます。真の師だけを自分のものにしても滅びません。真の主人だけを自分のものにしても生きていけます。永生の位置に行くのです。なぜで しょうか。ために生きる天理の位置に立つからです。神様がそうなので、自分の家庭で三大主体思想の実体を形成して皆さんが父母にもなり、師にもなり、主人 にもなりなさいというのです。そのようになれば、すべて終わるのです。大きな神様から広げて、「私」の家庭ですべて成就するようになれば、ここにすべての 垂直の軸が立てられるのです。それが統一的起源なので、神様のものが「私」のものになるのです。ですから、神様に似なければなりません。それが三大主体思 想です。

31 皆さんの心と体を見るとき、心がどれほどかわいそうですか。心は、神様の代身です。心は、先祖たちを 代表します。心は師を代表し、国王を代表します。しかし、これまでこの心をどれほど蔑視し、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心として真の父母、真の 師、真の主人の立場にある、真の愛をもった主体としていらっしゃるお方の代身である心が、この地上で、自分一人を収拾するために、どれほど犠牲になってき たでしょうか。そのように犠牲になりながらも、不平を言いません。ひたすら蔑まれ、引きずり回されながらも、死んでしまったと思っていたら、悪い考えを もって明け方にどろぼうしようとすれば、「おい、こいつ」と、再び生き返って忠告します。皆さんはそのような心を、どれほど弄びましたか。心は、父母の代 身であり、師の代身であり、主人の代身です。

32 本郷においては、神様を王として侍らなければなりません。神様 は、宇宙の王であり、国の王であり、氏族の王であり、家庭の王です。神様は、宇宙の師であり、国の師であり、氏族の師であり、家庭の師です。神様は、字宙 の主人であり、国の主人であり、氏族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、ために生きる愛、ために生きて忘れる愛の本質があ るがゆえに、この三つ自体が天を代表するというのです。自分自身が、その三大主体思想をすべて備えるとすれば最も理想的ですが、それをすべて備えられなく ても、真の父母の立場に立てば、師は右側、主人は左側に立つのです。ですから、この三つのうち、どれか一つだけでももてばいいのです。真の父母になるか、 真の師になるか、真の主人になるか、いずれか一つの立場に立てば、天国入籍は問題ありません。これさえすれば統一されるのです。

33 人間が堕落しなかったとすれば、神様がアダムとエバと共にアダム家庭から父母になり、師になり、主人になります。その次に氏族に上がります。家庭から氏族 の位置に上がって氏族の父母になり、師になり、主人になり、その次に民族の父母になり、師になり、主人になります。そのような意味から考えてみれば、大統 領とは何でしょうか。大統領は国の父母です。ですから、国民たちは大統領を父母として侍らなければならず、師として侍らなければなりませ ん。その大統領は、すべての民族の意気と全体の歴史的背景を代表して、行動の領域でその代名詞にならなければなりません。そして、師になって主人の位置 で、今まですべての国民を管理していた国家体制をそのまま伝授していかなければなりません。それが世界に拡張され、天地もそのようになるのです。神様と言 えば、そこに逆らうものは何もないというのです。そのお方は、私たちを生んでくれた生命の根本となる父母であり、あらゆる知識の根源者であり、「私」が 悟って生活することのできる自由環境を、歴史を通して備えてくれた師であり、そのすべてのものを準備して備え、私に譲り渡してくれた主人であるに違いない からです。この原則は、天上世界では永遠不変です。それが、私たちが立てるべき三大主体思想です。私が神様のように真の父母になり、真の師になり、真の主 人にならなければなりません。


第二節 真の愛の神様

1 神様は、全知全能であられるお方なので、願うとおりにみな成就することができ、したいとおりにすべてすることができます。ですから神様には、ほかに理想 とするものはありません。ただ一つ、愛だけが必要です。いくら絶対者の神様だとしても、一人では愛をもつことはできません。愛は必ず相対的関係でのみ見い だせるので、神様がいくら全知全能であられるお方だとしても、愛だけは神様お一人では所有できないというのです。もちろん愛の素性をもっていますが、愛の 刺激と愛の信号は、相対を通じてのみ再現されるのであって、御自分だけでは顕現させることができません。これが愛です。愛の力です。

2 神様が人間を造られた目的とは何でしょうか。神様の愛を中心として完成した人を標準にされました。それが基準です。神様の愛を中心として完全な人になる のです。能力のある人、主管性のある人以上に、神様の愛を中心として永遠に一つになり、永遠に共に遊び、永遠に共に楽しむことができる完成した人、愛を中 心として一体となり得る立場で完成した人が、神様が理想とされる最高の基準でした。


神様は愛の主管者

3 真の愛は神様から始まりました。神様から出発して続いていくので、結局、神様に帰らなければなりません。神様は万王の王です。神様は絶対的なお方なの で、神様の愛が永遠であることは違いありません。ですから、その絶対的な愛の対象の位置に立ったとすれば、それは自動的に永生するに違いありません。人間 が永遠に生きたいと思うのは、本然の創造の根源からそのようになっているからです。ですから、そのような願いをもっのは当然です。

4 真の愛は、必ず相対的基盤を通して成り立つようになります。夫婦間の真の愛は、自分たち夫婦だけのためのものではありません。神様の創造理想を中心とし た真の愛にならなければなりません。絶対的な真の愛の主人は神様です。神様の真の愛で自分の相対と一つになろうとするとき、絶対的な神様の真の愛が臨在す るのです。真の夫婦は、神様の真の愛を抱いて一つになり、希望をもって、未来の世界に向かって進まなければなりません。子女の妊娠も、一族の繁栄も、この 基台の上でなされます。夫婦の真の愛が生活環境圏を超えて、神様の真の愛の理想と一致する家庭をつくるのが究極的な願いです。

5 神様が存在しないとすれば、人間はこの世で生きる楽しみがありません。目は何を見なければならないのでしょうか。良いものを見なければなりません。映画 を見るのも、悪い映画を見ようとするのではなく、良い映画を見ようとします。そして、感動を受けるために良い映画を見にいくのです。耳も良いものを聞こう とします。悪いものは聞こうとしません。良い声の中でも、最高に良い声を聞こうというのです。ですから、人間は、見るのも最高に良いものを見て、聞くのも 最高に良いものを聞き、匂いを嗅ぐのも最高に良い匂いを嗅ぎ、触れるのも最高に良いものに触れたいと思います。それでは、最高に良いものとは何でしょう か。愛です。それでは、愛の主人、愛の大王とは誰でしょうか。天地を創造した神様です。

6 全知全能であられる神様、存在されない所がない神様、知恵の王であられる神様は、人間世界で一番悪いものでも、一番良いものにできる能力をもった神様で す。ですから、そのようなものを探してみると、愛の支配者の立場が、神様が御覧になるときに、一番良く見える立場でした。愛の支配者の立場が神様に一番似 合う立場だというのです。愛の支配者になるためにはどのようにしなければならないのでしょうか。支配者とは、自分の思いどおりにする人を言います。神様は 愛の支配者です。「私のために生きよ」と考える支配者ではなく、ために生きようとする支配者です。ですから、自分のために生きる人は、神様とは関係ありません。神様の愛と関係を結ぶためには、自分のために生きようとしてはいけません。自分のために生き ようとする人は、神様とは関係ありません。ですから、愛の支配者になるためには、自分のために生きるのではなく、ために生きようとしなければなりません。 ために生きようとする愛の支配者、絶対的な主人であるお方が神様です。ですから、ために生きようとする愛を本質として、絶対的な唯我独尊の位置にいらっ しゃるお方が神様なのです。

7 神様は、愛の支配者です。永遠にために生きようという、永遠無窮にために生きようとする愛の支配者が神様です。そのような神様なので、そのお方と関係を 結び、そのお方と愛の圏内で統治されるためには、「私」も、ために生きる愛をもって主張しなければなりません。そうでなければ、神様は相手にもしないとい うのです。

8 絶対的な神様も、愛を中心としては絶対服従しようとされるのです。これは、キリスト教の神学にはない言葉です。力の世界を中心として見てみるとき、キリ スト教文化圏は多くの血を流しました。力さえ保持すればみなできると考えるのです。「神様は思いどおりにすることができる」と考えました。それが誤ってい たのです。絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できる所、愛が立つことができる所を求められるのです。神様も、絶対的に愛を好むのです。どのくらい好む のでしょうか。絶対能力を発揮することよりも好みます。全知全能で遍在することよりも好みます。それはどういうことでしょうか。神様は、すべてのものを捨 てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするというのです。そうしてこそ筋が通ります。神様は人類の父であると言いますが、父自身が愛を中心として 生きずに、息子、娘に「子女たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きなさい」と言うことができるでしょうか。根源がなければなりません。ですから、神様御 自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」と教育できるのです。

9 真なるものとは何かというと、絶対的な愛です。絶対的な神様も、真の愛には絶対服従しなければなりません。男性と女性が愛の道を探し求め、「その男性、 その女性でなければならない」と思うときには、自分の生命を超えて動こうとします。その愛する相対のためには自分の生命を捧げようとし、自分のすべてのも のを、過去、現在、未来をそっくり犠牲にしても、その愛と一つになろうとします。これは、堕落した愛でも、そうだという話です。本然の神様が願った完成し た愛であれば、どれほど強いでしょうか。生命が問題ではありません。ですから、神様御自身の生命までも否定させ得るものが真の愛の力です。もし、神様が愛も思いのままにすることができるとすれば、平和の世界にはなりませ ん。独裁的な単一世界に、はなるかもしれませんが、和合して相対者の立場で授け受けすることができ、お互いにために生きることのできる愛がなくなれば、平 和の世界、一つの世界はできないのです。


真の愛ゆえに生まれた人間

10 神様は、なぜ万物を造ったのでしょうか。御自身が愛する対象者をもつためです。御自身が愛する対象圏を造るためです。その対象が地上で生きたのちに、 自分の本然の世界に戻ってきて、永遠なる神様の愛の本国に来て生きるようにするためです。男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。そ れは愛ゆえです。男性と女性が、なぜ愛をもとうとするのですか。神様の愛のためです。それが真理です。

11 神様の主流の属性は、絶対、唯一、不変、永遠です。絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠愛です。この愛を求める道を行くためには、自分を中心として考えて は、そこで終わるのです。しかし、男性は女性に対し、女性は男性に対し、絶対的に、唯一的に、不変的に、永遠的にために生きる立場において、神様の属性の 主流である絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠愛が現れるのです。私たちは、永遠の神様に似て、永遠の生涯を中心として生まれたので、永遠の真の愛を中心として 生きるのです。その真の愛は、二つではなく一つです。唯一的愛です。また、いくら唯一的で絶対的でも、変化すれば大変なことになります。ですから、不変的 愛であり、永遠の愛です。

12 神様の主流属性である絶対的な愛の個人の位置、また絶対愛の家庭の位置、絶対愛の氏族、民族、国家、世界、天宙の位置は分かれているのではなく、すべ て一つになって大きくなっていったというのです。頂上に上っていき、個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代として、一つの中心と連 結して拡大した世界にならなければなりません。無形の神様の属性を中心として、男性格主体の絶対主人の立場を中心として、縦的な立場に立ちながら、これが 正常に大きくなっていったとすれば、堕落のない世界なのです。

13 アダムとエバは、絶対創造主の体です。体として造ったのです。無形の実体では、実体の刺激の世界と向き合うことができません。それで、神様は、アダム の心に入ってアダムが成熟することを願い、エバの心に入ってエバが成熟することを願いました。しかし、アダムとエバは、神様が成熟することを願った、その 時に堕落しました。堕落していなければ、私たちは、神様の直系の血統を受けた息子、娘に、間違いなくなっていたでしょう。神様が根になっているというので す。神様が愛の根です。しかし、堕落したために、神様の愛を土台にした根は生まれませんでした。

14 神様は、人間の先祖アダムとエバをお造りになり、どのような基準に立てたいと思われたのでしょうか。神様が本然の人間を造られた目的は、決して人間を 悲しみの中に、苦痛の中に、不幸の中に置こうと思われたのではないのです。神様の働く所として、神様の心の場として、神様の愛の対象としてお造りになりま した。アダムとエバは、神様の働く場所であり、心の家であり、愛の対象でした。善であられる神様が造られた創造の世界もまた善なので、アダムとエバが活動 するその生活環境も善でなければなりませんでした。それが創造当時、神様の目的であり理念でした。

15 神様が愛の対象を探すために創造した思想とは何でしょうか。投入して忘れることです。これが宇宙発生の基本思想です。ところが、堕落することによって 反対になりました。神様は相手のために自分を犠牲にして完全投入し、より良い第二の相手を造ろうとしますが、人間は堕落して、自分を中心として相手を犠牲 にしようとします。ですから、堕落した世界では個人主義が世界版図にまで広がって、地上地獄として破壊現象を起こすのです。それが現世です。


愛で完成される創造理想

16 神様は、無形の神様です。「正」から分かれていくのですが、そのまま無限に分かれれば見えなくなるので、再び「合」によって現れるのです。そこから大 きくなって上がっていきます。大きくなって上がるようになれば、神様は最高の位置に存在するようになりますが、神様はどのように完成するのでしょうか。実 際、神様がどのように完成するのかという話は初めて開く話ですが、内容のある話です。神様も完成しなければなりません。全知なので知識の完成ではありませ ん。創造理想はお金の完成ではありません。権力の完成ではありません。愛の完成です。

17 神様御自身は絶対者ですが、絶対に必要とするものは愛です。神様も愛のために存在します。愛のために生きるというのです。私たち人間は、神様の二性性 相の一つの性、すなわち内性に似て生まれました。アダムは神様の二性性相の半分、一部分であり、エバは神様の二性性相の半分、一部分です。ですから、これ 自体だけでは完成があり得ません。言い換えれば、男性自身の完成、女性自身の完成があり得ないというのです。それで、男性は女性に出会わなければならず、 女性は男性に出会わなければなりません。

18 人間完成の道はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だか らです。ですから、男性と女性は、完全に一つになった愛を中心としてのみ完成します。アダムとエバが完成するには神様が絶対に必要ですが、神様は縦的な立 場で必要なのです。アダムとエバが完成しようとすれば、縦横の愛の関係をもたなければなりません。縦横の愛の関係をもたなければ回転運動、球形運動が不可 能です。ですから、横的な立場でアダムに絶対に必要なのはエバです。同じように、エバにも横的に絶対に必要なのはアダムです。

19 愛の概念から男性と女性が分かれました。見えない神様は、一致したところでは愛の刺激を感じられないので、分立させて刺激を感じようとしたのです。言 い換えれば、無形の神様の実体の内容が、有形の実体の内容に展開したのです。無形の性相と形状の実体圏が有形の実体圏、性相体と形状体に展開しました。そ れが再び無形の実体になろうとすれば、一つにならなければなりません。神様が実体としていらっしゃるので、無形の性相と形状の愛で一つにならなければなら ないのです。人間も、男性と女性が一つになった実体対象になるとき、初めて神様の愛の相対になります。

20 人間の創造とは、神様御自身が成長してきた過程を実際に再び展開させてきたものです。そこに神様が興味を感じ、刺激を感じるのです。人も同様です。画 家が、傑作を作るために絵を描くのは、自分の内的な素性をすべて実際の形象として展開させることです。自分の骨髄の中の深い所まで搾り出して投入するので す。


第三節 真の父母であられる神様

1男性は神様のプラスの性稟の、女性は神様のマイナスの性稟を身代わりした実体対象です。創造理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に 分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化します。一人の男性と一人の女性は、各々神様の一性に似て現れました。したがって、これらの一男一 女の結合は、神様のプラスの性稟とマイナスの性稟が一つとなることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。ですから、二人、すなわち夫婦は、神様 の全体を表象する結合体です。男性は神様のプラスの性稟を身代わりすることによって真の父の分身となり、女性は神様のマイナスの性稟を身代わりすることに よって真の母の分身になります。彼らは各々神様の代身者でもあるのです。


宇宙の中心は父子の関係

2 私たち人類の父が神様です。私たちは神様の息子、娘です。神様が第一世ならば私たちは第二世の神様です。一世の神様がプラスであり、二世の神様がマイナ スです。ブラスとマイナスが自動的に一つになるのが創造原理です。

3 天地の中心と宇宙の根本とは何ですか。先生が神秘的な境地に入って、神様に祈ってみると、父と息子、娘の関係、すなわち父子の関係だとおっしゃいまし た。分からない人たちは、肉親の父母、息子、娘との関係だと思うかもしれませんが、神様と人間の関係を意味するのです。

4 神様と人間は父子の開係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。皆さんが神秘的な境地に入って祈るとき、「人間は被造世界の中心 ですが、この宇宙の中心は何ですか」と尋ねると、「父子の関係だ」という答えを得るでしょう。宇宙の中心について一言で結論を下せば、父子の関係だという のです。人々は父子関係というものを、普通に考える自分の父母、すなわち人倫道徳を中心とした父子の関係のことだと思っていますが、そうではありません。 それを立体的な立場で見れば、神様と人間は、父子関係の情を中心として一つになっています。その位置が宇宙の中心なのです。

5 愛を中心として見てみるとき、「私」は母の愛の実であり、父の愛の実です。神様の愛の実です。縦的な面では神様の愛の実であり、横的な面では父母の愛の 実です。これを受け継いだのが私なので、父母は私に背くことができません。なぜなら、永遠にその愛に従って一つになり、永遠にその愛の中で生きたいからで す。ですから、父母は、堕落したとしても、その息子、娘と永遠に暮らしたいと思うのです。

6 神様御自身も心と体をもっていますが、それが主体と対象の関係で絶対的に一つになっています。一つになっているので神様が安息できるのです。神様は、永 遠に心と体が一つになった立場にいらっしゃいます。真の愛を中心として一つになっています。そして、そのように一つになった対象の存在を必要とするので、 人間を造りました。父子の関係は血統的関係です。父母の要素を息子、娘がすべて受け継ぎます。父母の性相と形状を、主体と対象の関係と同じように受け継ぐ のです。父母と同じように、プラスとマイナスの要素を子女たちは受け継ぐのです。それ以外には受け継ぐものがありません。神様の愛で一体になり、すべての 骨格が一体になり、神様が一つになるのと同じように、心と体が一つになるところから相手が必要になります。そのような立場において、男性は女性が必要であ り、女性は男性が必要であり、家庭が必要であり、子女が必要です。

7 心の立場を代表する父が神様であり、体の立場を代表する父が、堕落していない真の愛を中心とした人類の始祖です。統一教会では、歴史時代には分からな かったこの事実を突き止め、これに代わって対応する名称として使う言葉が「真の父母」です。ですから、横的な真の父母の立場が、本来の創造した理想観から 見た神様の息子、娘の立場でした。アダムとエバの立場だったというのです。

8 神様は、愛の神様です。愛の神様が人間を本当に愛する位置はどこでしょうか。人間が求める最高の位置です。神様はその位置を愛さなければならない立場に いらっしゃるのです。人情と天情が結合するところは、神様と人間が父子関係を結ぶところです。宇宙の根本は、父子の関係です。その父子関係とは、天地を創 造した絶対的な神様と、堕落していない本然の人間との関係です。人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり、人間は子女だという位置です。

9 宇宙の根本は何でしょうか。始まりは愛であり、結果は父と息子です。神様は、愛を中心として父子関係を結ぶために宇宙を造りました。ですから、宇宙の根 本も父子関係です。皆さんは宇宙の根本を中心として連結されています。したがって、皆さんも父になり、息子、娘にならなければなりません。

10 宇宙の根本は、正に父子関係です。私たちの本心が行く道は、千万人に尋ねても、神様を自分のものにし、神様の愛を占領するために行く道だと答えるで しょう。息子が十人いるとしても、息子たち一人一人に対する父母の愛には差がありません。万民が心と行動を一致させて神様を父と呼ぶようになる時、かわい そうな父から切なる愛が流れ出るというのです。父母の心情を経て、骨髄からにじみ出る愛が子女に宿るとき、ここが正に人間がとどまる最高の幸福の基点であ り、人間の心の本郷です。

11 人は自分に似たものを好みます。理想世界は神様に似なければなりません。神様は天地を創造するとき、どのように造ったでしょうか。創世記第一章二十七 節に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあります。神様のかたちに、男性と女性を創造したと いうのです。ですから、人間は神様に似ているのです。私たちが自分に似たものを好むのを見ると、結局、神様も私たちが神様に似ているので私たちを好むとい うのです。ですから神様は、天地万物を造っておき、神様に似たそれらを見ながら喜ぶのです。

12 神様は絶対的なお方であり、全知全能のお方です。そのような神様は誰に似たのでしょうか。私たちがそのお方の形状どおりに造られたので、神様は私たち 人間に似ています。神様は人格的な神様です。ですから、神様は人間に似ているのです。人間を神様のかたちに造ったとあるので、父である神様は息子と似てい るに違いありません。神様は人間に似ているのですが、どのように似ているのでしょうか。女性に似ていて、男性に似ているというのです。

13「私」は誰に似ているのでしょうか。神様に似ているのです。神様を中心として見れば、私は神様に似ていて、私を中心として見れば、神様が私に似ていま す。言い換えれば、父を中心として見れば息子が父に似ているのですが、息子を中心として見れば父が息子に似ているというのです。神様は私たちに似ていて、 私たちは神様に似ているというのです。私たちの欲は誰の欲に似ているのですか。神様の欲に似ています。神様の欲に似ているので、その欲は最高のものをもと うとするのです。神様は最高のお方であり、絶対者なので、取るに足らないものを保持しようとするのではなく、最高のものを保持しようとします。それが私た ちの心です。

14 神様は全知全能で、遍在し、永遠のお方ですが、私たちはどこが似なければならないのでしょうか。私たちが神様に似ているとすれば、どのようにならなけ ればならないのでしょうか。神様が永遠なら私たちも永遠でなければならず、神様が遍在するなら私たちも遍在しなければなりません。ですから、世界のどこに でも行って暮らしてみたいと思うのです。全知全能の力をもって全世界を一度に掌握して暮らしてみたいと思うのです。そのようにしたいと思うのは、神様に似 ているということです。

15 神様と人間の関係を見てみるとき、神様が人間の父であり、人間が神様の息子、娘だとすれば、人間に対して「神様よりハンサムだ」と言っても、神様は気 分が悪くありません。もし、気分が悪いとすれば、神様は堕落した人間より劣るというのです。ですから、愛が必要です。


真の父母であられる神様

16 神様は、縦的な真の父母です。真の愛を中心とした縦的な真の父母の立場に立っているお方が創造主、神様です。神様が縦的な愛の主人ならば、縦的な愛だ けをもっていては一点にしかなりません。これをいかにして横的に展開させるのでしょうか。赤ん坊を生むのは、神様ではなく真の父母です。横的な真の愛の父 母の立場に立った、そのお方が真の父母です。神様のみ前に、すなわち縦的な愛を中心とした真の父母のみ前に、九〇度の角度を備えた横的な愛をもったお方が 真の父母なのです。ですから、皆さんは二人の父母の愛が必要です。お一人は創造主である父母であり、お一人は神様の対象として理想を描きながらお造りに なった実体的な父母です。ですから、神様は心と同じ立場の父母であり、真の父母は体と同じ立場の父母です。

17 神様は縦的な父です。縦的な真の愛を中心とした父母です。そして、アダムとエバが成長し、成熟して神様のみ旨を成すようになったとすれば、これが横的 な父母です。横的な立場の真の愛を中心とした父母の位置です。この縦的な神様と横的な真の父母が、愛を中心として十字に交差する点において九〇度で一つに なるのです。

18 創造主は縦的な父であり、アダムとエバが堕落しないで完成したならば、横的な父母です。そして、愛を中心として一つになり、そこから子女が生まれて いたならば、その子女は縦的な父母に似るとともに、横的な父母に似た真の父母の愛の化身体となるのです。そのように生まれた息子、娘は、神様の代身であ り、真の父母の代身です。

19 神様は、真の愛を中心とした縦的な真の父母です。縦的な軸は一つです。その位置は一つしかありません。永遠不変です。神様は、真の愛を中心とした縦的 な真の父母の立場にあるお方です。真の愛をもたなければ神様とは関係がありません。また、その縦的な真の愛を中心とした真の父母のみ前に、アダムとエバは 真の愛を中心とした横的な父母です。真の愛を中心とした横的な父母の立場が真の父母の位置です。

20 愛を中心として見れば、神様は縦的な父であり、縦的な愛をもった真の父母です。縦的な生命を生んでくれる真の父母であり、縦的な血統を相続してくれる 真の父母です。神様は、縦的な真の愛と縦的な真の生命と縦的な真の血統をつないでくれる縦的な父です。その縦的な父の実として結実したものが縦的な位置に 立っている心です。その心は、縦的な「私」です。

21 神様は縦的な父母であり、アダムとエバは横的な真の愛を中心とした父母です。この二つの父母が一つになり、その血統を受け継いで出てきた本来の堕落し ていない子孫にならなければならなかったのですが、エバが二十歳未満の未成熟な時にサタンとペアになりました。ですから、いくら信仰の篤かった人でも、地 上で真の父母に侍ることができなかった人は、天国に行けません。そのような原理はないのです。それでは、堕落を越えた立場にいる真の父母とは、どのような お方でしょうか。神様は縦的な真の愛の父母であり、成熟したアダムとエバは横的な真の愛の父母です。横的な父母だというのです。縦的父母と横的父母を何で 一つにするのでしょうか。九〇度の角度の愛で爆発するのです。爆発してそこから息子、娘が生まれ、これが家庭、氏族、民族、国家、世界に広がれば、天の人 になるのです。


王権を完成しなければならない神様

22 神様とはいったいどなたでしょうか。「神様は絶対者であり、創造主として神聖なお方であり、私たち人間は卑しいものだ」と言いますが、それは間違って いるというのです。神様が絶対的に神聖なので、その方が理想的に造った物も聖なる物です。皆、荒野時代において契約の箱を中心として神殿を至聖所、聖所と 言いましたが、人が造ったその至聖所と聖所は、神様が造ったアダムとエバ、堕落していない本性の至聖所、聖所の代わりになり得るでしょうか。その至聖所や 聖所とは何でしょうか。将来、取り戻すことができ、復帰して理想的なアダムとエバとなるものを象徴的に複合させ、それを大きく、広く、高くして本聖殿、本 至聖所のような実体を造るための過程的象徴体にすぎないのであって、それ自体が神聖なのではありません。堕落した人間が造った物も至聖所、聖所と言うの に、絶対的で神聖なその方がお造りになったアダムとエバは、どれほど神聖なものでしょうか。ですから、アダムとエバの心は至聖所と同じであり、アダムとエ バの体は聖所と同じであり、その中に神様がいるのです。そのようになっていたならば、神様を中心として、アダムは神様の体になるのであり、エバも神様の体 になるのです。神様の男性格の性稟に似ているのがアダムであり、女性格の性稟に似ているのがエバです。この二人の結婚式をすることが字宙の王権を立てる式 です。それが愛の王権です。

23 アダムとエバは神様の体です。神様を中心として、未来においてアダムは王になり、エバは王妃になるのです。神様と一つの体です。ですから、正分合で す。正から分かれるのは愛のためです。それでは、「絶対的な神様は、分けなくても思いどおりにできるのに、なぜ分けたのですか」と尋ねれば、何と答えられ るでしょうか。分けておいた理由は、実体世界を造られた神様が無形のままでは実体世界を治めることができないからです。それで体が必要なのです。創造され た目的が、神様も実体をまとって実体の父母になることです。その実体とは誰かというと、アダムとエバです。アダムとエバが完成すれば、神様はアダムとエバ の心の中に入っていき、神様を中心とする王権を成し遂げるのです。

24 神様は、なぜ人を創造したのでしょうか。この宇宙は実体であるので、実体の主人であるアダムとエバを中心として管理、主導できる立場に立つためです。 霊界において、神様は無形でいらっしゃるために治めることができないので、実体の体をまとうことによって、実体をもって地球星で生まれてくる自分の息子、 娘となる子孫たちを治める王になるために、実体の人を造ったのです。その王の顔とは、誰の顔ですか。アダムの顔です。王をつくったので、王妃が必要です。 エバがその王妃にならなければなりません。二人は地上の先祖であると同時に、天上世界の先祖になります。ですから、その父母が生きた生活的伝統を千年、万 年受け継いで世界に連結すれば、王権は一つです。地上世界の王権であると同時に、天上世界の王権になるのです。

25 神様は無形です。霊界に行っても見えません。神様が愛を中心としてアダムを造ったのは、この被造世界が体をもっているからです。神様は体をもった父に ならなければなりません。体をもった父になることで、見えない無形と見える有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。ですから、 体をまとうためにアダムとエバを造ったというのです。アダムとエバは神様の形状に似た体をもった姿として現れるのです。そうして、アダムの姿とエバの姿が 天の国の王座に上るようになり、その王と王妃の心の中に神様がいらっしゃることで、地上世界と無形世界を統治するというのです。神様の王国を造るのです。 愛の王国です。

26 神様は王の中の王であり、父母の中の父母なので、アダムとエバは神様の真の愛を中心とした王子、王女です。しかし、堕落することによって、この王子、 王女の位置を失ってしまいました。言い換えれば、アダムとエバは、長子権、父母権、王権を失ってしまったのです。


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